「お別れ会」

2022/05/05


今年は、満開の桜を見て涙が止まらなかった。

この度、我ら「チーム夫婦」は解散となった。
cafe0371強力者、相棒の小山内 悟が先月4月10日(日)に他界した。

昨年11月11日に膵臓癌末期、余命1年~2年と宣告されていた。
直ぐに息子達家族と彼の姉弟には伝え、覚悟を決めて、慌てず、焦らず、最後まで一生懸命生きることを諦めなかった。

宣告日から「お別れ会」開始。
年末年始、体が動くうちにのんびり温泉に泊まってご馳走を食べよう、写真もカメラマン健ちゃんにお願いしてみようとか話題にも。

「やり残したことある?」
「好きなお酒も飲んだし、美味しい料理も沢山食べたし、やり残したことは、特にない。
車で日本をぐるりと旅もしたし、強いて言えばキャンプしながら、計画中の旅が出来なくなったこと。」と。

(年末久々、長男、次男、四人で昼食。財産のこと等々…楽しいのに悲しい時間。)

結局、いつもの当たり前の暮らしが私達には一番落ち着くと改めて感じたのだった。

教員退職後、仕事は色々挑戦。
最後の仕事は、社長さん方のご理解を頂き、早朝5:30出勤、そして一休み後15:00再度出勤、グループホームの食事準備を続けていた。
抗がん剤治療をしながら、仕事の間時間は、毎日coopにマイかご持参で買い物、日常の食事準備、ゴミ出し、屋根の雪降ろし、駐車場除雪…パソコン作業(カフェ会計、小学生バレーボール協会資料作成)等々。
私も二階の気配を「今、生きてる、生きてる」と、感じながらカフェ作業。
3月8日(月)、血液検査に行った後、2階の気配がしない…上がってみると椅子に座ったまま動けない姿。
県病から検査結果が良くないため、直ぐに来るように、と。
そのまま、入院、19日(土)退院。
次の日20日(日)救急へ、そのまま入院。
抗がん剤治療から緩和治療に。
…個室になっても面会が絶対出来ない。
タオル一枚渡すのも看護師さんを通して。
わ~このまま、おしゃべりが出来ないでお別れするの~。
まだ、2年前に生まれた孫にもあっていないし、一昨年、講習会に行って作った味噌だって味見していないし。
本人も帰りたいと希望。
体調のタイミングを見て「余命は数ヶ月」と宣告され、3月31日に退院。
退院当日朝、転んで唇を切って縫って、あごはたんこぶ、胸もぶつけていて、骨が折れていなかったのでセーフ。

自宅治療(病人ではなく一緒に生活する人と目標を知って気持ちが少し安定)を始める前の準備が一週間。
先ずは、訪問ドクターを探すことから…面接…。介護と医療の契約書、ベットの位置…。一階カフェを住居に。

「いよいよ、本格的なお別れ会になって来たぁ~。コロナじゃなかったら、みんなでワイワイ飲み会したかったね。」と、私。うなずくお父ちゃん。

リクエストに合わせての買い物や料理は楽しい作業だった。
病院の冷凍フルーツ、冷製スープが気に入っていたようで、私も数種類準備。
もちろん、具沢山味噌汁も。
ワイドショーを観ながらコーヒーとカステラ等のおやつタイム。
平日のこの時間に二人一緒に過ごすのんびりタイムはこれまでなかったような気がした。
大好きなといといパンを頂いた日は、初めて自分の為にワインを買って、なんと初めてコルクを開けた。
そのコルクを逆さまにして蓋にするのも初めて知った。
…数ヶ月、こんな日が続くと思っていたが、車椅子でトイレに移動が困難、5日目くらいにはだんだん水も食事も取らなくなった。
無知な私は、もう少し時間が経ったら薬もあるし、何か食べるかも、と。
しかし、訪問看護師さんからこの状態では、一週間命が続かないかもしれないと告げられ、特に一日一日を大切に過ごす。
長男家族、次男家族、私の弟と毎日賑やかな中…。
11日(月)の訪問入浴は、他県から来た人がいる場合、帰ってから3日しないと出来ないと。
でも、それが良かった。
10日(日)、明日の入浴はないから着替えをと。一人では困難、現在の状態を知るために、訪問看護師さんに電話。
Tシャツを着せている時、「お母ちゃん、お母ちゃん。」と力強く二回。
「呼んでくれてありがとう」と、私。
玄関で「一分一秒が大事な時ですよ。」と看護師さん。
散歩から帰って来た息子達に、「お母ちゃんは、もうお父ちゃんの側から離れないからね。ご飯とか勝ってにやって。」と。
どうしても、台所に立ったり、洗濯をしたりの時間があるし、側に居たら居たで泣いてしまってお父ちゃんを困らせるといった状態。
少し冷静になって静かに側にいることにした。やっと…。
最後まで耳は聴こえるそうなのでもっと沢山喋れば良かったかな~。

あれだけ「痛い!痛い!この足いらねー」と、苦しんでいたが、普通に寝ている様子。
疲れただろうから、しばらく、お昼寝出来たら良いなとも思った。
口元が何か話しているようだったので、「お父ちゃん何話してるの?わからないよ~」と声に出した。
喉がコロコロ音がして、口だけで息をしていたのがピタっと止まって、息をハーとひとつして彼の人生が幕を閉じた。(15:00頃)。
私の弟もそれに立ち会えた。
「お父ちゃんの息が今無くなったみたいよ」
散歩から帰って来たばかりの息子達家族も全員、枕元に駆け寄り、お別れが出来た。

お父ちゃん寂しくなくて良かったな~。

しばらく、側に居たかったが、あっ!看護師さんに連絡しなければ…

先ほどの方が直ぐに来てくださり、息子達とエンゼルケア(皆で体全体を拭いて綺麗にした後、皆で着替え)を。
3人の訪問看護師さんの心のこもった作業には感動した。

村上病院の訪問ドクターが死亡診断(16:35)。

コロナじゃなかったら、連れて帰って来なかったかも。
他界する二日前には、神父様にもお祈りをして頂いて安らかな気持ちにもなれたのでは。
寝たままだったが、手を合わせてお辞儀も。

棺桶の中のじいじに毎朝、ママに抱っこされた孫達が「おはよう」と。
私一人だけだったら、ただ悲しい辛い「お別れ会」。

ベットの側で食事やおやつ、孫が歌を歌ったり、お絵かきしたり、ケンカをしたり…亡くなったじいじに絵本を読んであげたり、福の神を作って顔の回りに並べたり…可愛い楽しい悲しい時間を過ごした。

葬儀、告別式前のお別れの式(焼香)には、沢山の方々に参列を頂く。
cafeを始めてから知り合った友人、知人が沢山出来ていたことに気付く。
…手を合わせながら「お父ちゃん、ご馳走さまだった。」との言葉も。
駐車場係等ボーイスカウト仲間が、生オルガン、受付係…火葬にも遠方から親戚の方も。
16日(土)、埋葬にも神父様をはじめ教会の方々と共に過ごせ、深い悲しみを平和な気持ちが包んでくれた。
素晴らしい青空も癒しに。

一人残った長男と作業後、外食。

自宅治療を決めた時は、ただ、もっとおしゃべりをしたり、一緒にご飯が食べたいだけの理由。
でも、私に出来ることは?と考えた時に一瞬連れて帰ったことを後悔した。
訪問看護師さんに話したら「病院でもほとんど同じ治療だから、連れて帰って来て正解です。」の言葉に励まされた。

お互いに「幸せだったよ。ありがとう。」も意識がある時にきちんと伝えた合った。

息を引き取った後、キスを。
「おやすみ」「ありがとう」「さよなら」…なんと言ったか覚えていない。

本当に沢山の方々のお世話になりました。
そして、大切なお時間とお心遣いをありがとうごいました.。
感謝致します。

毎日、悲しみ寂しさが襲って来て、大きな声で泣いています。
でも色々な「お別れ会」の後には必ず何かが始まるのを思い出しました。

戦争や事故等でご家族を亡くした方々は、「お別れ会」が出来ず悲しみの前に恨み苦しみの日々が続いています。
癒される日が来ますように。戦争が無くなりますように。 お祈り申し上げます。

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